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選択と契約

カイシャがなくなる日

名和高司 著

読了


結構ぼくには難しい本でした。



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未来に「カイシャ」という組織は存在するのか。

もし存在するとして、その存在意義とは。

 

そんなことを対話を通じて考える思考実験のような本。

内容は、ぼくにとってはとても高度でなかなか理解することは困難だった。


心に残ったところを紹介する。



これは、この本だけから受け取った印象ではないのだが、いま興味があるのは

「選択」と「契約」から成立しているシステムについて。

さらに、そのシステムの外から考えることができるのかという問い。


選択の自由

選択の責任


こういった言葉にも、正しさと違和感の両方を感じる。



本書には、いろんな選択テーマが書かれてある。



我々は、何のために働くのでしょう。

あなたの信条は、「Work to Live」と「Live to Work」のどちらですか。


クリエイトするからヒトなのか、遊ぶことができるからヒトなのか。


ワークとは何か。

ワークとジョブは何が違うのか。


もしカイシャがなくなる日が訪れるとして

そうなると、ワークはどうなるのか、ライフはどうなるのか。


働きがいのない先に、生きがいはあるのだろうか。

どのような生き方を目指せばいいのか。



「カイシャ」という存在があることが前提だからこそ、仕事とは、働くとは、遊びとは、幸せとはと、多くの問いと多くの選択が、目の前に提示される。


では、「カイシャ」が消えた未来に、ヒトはどう生きるのか。



選択と契約の世界ではない、少し誤解を招きそうなんだが、東洋的日本的世界観から考える生き方もあるのではないか。


ここは、まだまだ勉強不足で、言葉にすることは難しいのだが。


たとえば、選択の自由を約束される。

それこそ、幸せへに道であり、真の自由だと。


しかし、実際は、正しい答えはすでに用意されている。

もちろん正しい答えを選択しなくてもいいのだが。

違う選択をした場合、大きな代償を支払うことになる。


それは果たして選択の自由があることになるのだろうか。

そして選択の先には、責任と契約が用意されている。


たとえば、自分が選んだ選択に対して、しっかり議論できる力と空気と場が用意されているのであれば、いいのかもしれない。

しかし、そういった議論することが当たり前という風土が醸成されていない地域に同じような社会システムは機能するのだろうか。


風土が醸成されていないのなら、議論ができる力を身に着けることが正しいのか。

もともとの風土を活かした、魔改造的な道を見つけることが正しいのか。




分人から和人へ。

福岡伸一氏の「動的平衡」。


本書には、この2つの言葉が紹介されていた。



「動的平衡」とは、生命が絶えず自己を破壊しながら再生することでバランスを保とうとする営み


週末にアニメ「呪術廻戦」を観たのだが、そこで語られた言葉。

敵の言葉だ。

誰も見たことがない予測不可能な混沌とした新たな世界を創造したいという欲求。

これは多くの無関係な人たちの日常を壊す結果になる。

しかし、それこそ本来の生命としての根源的な生存欲求からの声なのかもしれない。


「生きる」ということに純粋に向き合ったときの残酷なまでに正しい道なのかもしれない。


だとすると、今ある平和を守ろうとする正義と、創造的破壊は、どちらが理に適っているのだろう。



どちらにせよ、「選択」と「契約」をベースにした社会システムを一度外から眺める目を養う必要がある。

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