朝活大学素読会
所謂其の意を誠にすとは、自ら欺く毋きなり。
惡臭を惡むが如く、好色を好むが如し。
此を之れ自謙と謂う。
故に君子は、必ず其の獨を慎むなり。
小人閒居して不善を爲し、至らざる所無し。
君子を見て后厭然として、其の不善を揜いて、其の善を著す。
人の己を視ること、其の肺肝を見るが如く然り。則ち何の益かあらん。
此を中に誠あれば外に形わると謂う。
故に君子は必ず其の獨を慎むなり。
曾子曰わく、十目の視る所、十手の指さす所、其れ嚴なるかな。
富は屋を潤し、徳は身を潤す。心廣く體胖かなり。
故に君子は必ず其の意を誠にす。
意を誠にするというのは、自分が自分を欺かないということ。
悪い臭いを嗅いだら鼻をすくめ、好きな色を見れば目を見開いてみる。
そういうことだ。
そこで君子は、誰も見ていない時にどんな行動をするのか、独りを慎むのだ。
小人の多くは、時間を持て余すと、良くないことを考える。
それでも君子を見て、改めようと上辺だけいいことをしようとする。
しかしそんなことは、簡単に他人から見破られる。
結局、誠かどうかは、外に表れるもの。
だからこそ、独りを慎むわけだ。
意を誠にした行動なのかどうなのか、どちらにせよ多くの人から指摘されるもので、それは侮ってはいけない。
富は家を潤すが、徳は身を潤す。
徳が身を潤せば、心も身体も豊に成長する。
だからこそ、君子は必ず意を誠にする。
「意」を誠にする。
意とは何か。
解説には、心が表面に現れてくるものを「意」という。意識や喜怒哀楽といった感情のこと。
自分の意識や感情は、自分の心の在り方を表現しているもの。
その「意」を誠にしていく。
それには、自分を欺かないことだ。
では自分を欺かないようにしていくには、どうすればいいのか。
それが「慎独」となる。
心がどこにあるのか。 それは「意」(意識とか感情)を見ればわかる。
この解説の言葉を読み、思いもよらない気づきがあった。
「心」は自分の身体の中にあるものだ、と信じきっていた。
しかし、「心、ここにあらず」「上の空」という言葉がある。
本来は心と意(意識、感情)と行動が矛盾なく一つになっていないといけないのに、そもそもの「心」が自分から離れてしまっている状態があるということ。
もし、心が常に身体とひとつになっているのであれば、「心がどこにあるのか」という問いはいらない。
ぼくらは、何かに囚われ、「心」を自分がいる場所とは別の場所へ、または過去へ、または未来へ、移動させてしまうことがある。
ちゃんと「心」が、自分の中にある状態かどうか。
それは、心から派生した「意」を観察すれば分かる。
そして、「心」がどこかにふらふらと散歩している状態というのは、自分を欺いている状態だということ。
「自分は、自分を欺いていないだろうか」
この問いかけをすることで、心を自分の中に取り戻すきっかけになるのかもしれない。
格物致知
物(自分)をただし、いのちの声に耳を傾け、知に致る。
いのちの声、コールを聴いた自分を欺かずに、意を誠にしていく。
次回は、心を正すがテーマになります。
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