A NEW EARTH
二巡目 第16週 振り返り
今週は親の姿をよく思い出しました。
豊かさ
出力が入力を決める。
すべての豊かさの源泉はあなたのなかにある。 あなたの一部なのだ。
与えることは好きなほうだと自覚している。
しかし、その与えている行為は、自分の中にある源泉から湧き出たエネルギーなのだろうか。
両親からすごく多くの力を与えてもらい生きている。
先週の土曜日、射水市でセミナーの講師をさせていただいた。
17時までのセミナーで、終了後すぐに18時の電車で大阪に移動予定だった。
セミナー会場から直接駅に向かうことも考えたが、すこし早く会場を抜け出し、一度会社に寄ってから行くことにした。
会社に戻ると、父が一人ぼくの帰りを待っててくれた。
普段大阪に移動するときは、最寄り駅まで父の運転で車に乗せてもらうのだが、今回は時間も読めないし、休日の夕方になるので、自力で移動するつもりだった。
だから、父には大阪に移動することは伝えていたが、特に何時になるかなどは伝えていなかった。
それでも、父は、いつ戻るかわからないぼくを待っててくれたのだ。
これは、子どものころから変わらないぼくの知る親の姿だ。
父も母も。
ぼくは、両親からあふれるほどの力を与えてもらっていて、自分ひとりでは到底消費できないほどの力を誰かに与えているだけなのではないか。
決して、自分の中にある源泉から湧き出る力を活かしているわけではないかもしれない。
そんな問いを感じたのだ。
以前、学生団体あなろまっちの代表と、ど真ん中名刺を作ったときに「根拠のない自信」という言葉に出会った。
「ぼくには根拠のない自信があるんです。それが強みです。」と。
根拠のない自信は、一体どこからやってきたのだろうか。
至った答えは、両親の愛情、育ちだった。
無条件の両親の愛情に触れた子は、きっと根拠のない自信が育まれるのではないか。
もしそうなら、次世代へ、または、地域へ、根拠のない自信が連鎖する仕組みを残せないだろうか。
根拠のない自信が、いつかどこかで花開く物語をクリエイトしていくことはできないだろうかと、想像力を膨らませた。
無自覚に受け取り、誤読も含めて育んだ「根拠のない自信」。
本当は、それで満足してはいけないのだろう。
その力を呼び水として、自分の中の源泉を開くことが必要なのだろう。
ぼくは、まだまだその源泉を開くことができていないことに気づく。
混沌とより高い秩序
好雪片片、不落別処
好雪片々として、別所に落ちず。
舞い落ちる雪のひとひらひとひらは、落ちるべきところに落ちている。
子どものころ、父がお客様のところに納品する車によく乗せてもらった。
どこか遊びに出かけた思い出は、ほとんど記憶になく、一番の思い出は、仕事中の車の時間だ。
好きだったのは、雨の日。
助手席に座り、走っている車のガラスにあたる雨のしずくの動きを眺めるのが大好きだった。
車のスピードと雨粒の重力とのバランスで、いろんな動きを見せてくれる。
ガラスにくっついた雨粒が、ゆっくり横に動く様、ひとつひとつの雨粒が合併し、自らの重さに耐えきれなくなると、つーっと流れ落ちる様。
新しい雨粒が、どこに落ちてくるか予測してみたり。
そして、いつのまにか深い眠りにつく。
自宅に着いても起きることができず、夕ご飯ができるまで、ひとりで車の中で眠り続けることがよくあった。
音も時間の流れもない「無」。
無限を感じる時間だった。
今、あのときのような時間はあるだろうか。
スマホがある限り、あの時間は戻ってこないように思う。
不思議なもので、雨の日のドライブが、何十年経っても、色褪せずに記憶が残り続けている。
特別な瞬間だったことは間違いない。
思考というノイズが消えたときに初めて、隠された調和が、聖性が、より高い秩序が存在し、すべてが完璧な場所を得て、あるべき姿であることに気づくだろう。
子どものころは、隠された調和と聖性の神秘を相手に、遊ぶことができた。
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