葦原の瑞穂の国は
神ながら
言挙せぬ国
然れども
言挙ぞ我がする
言幸く
ま幸くませとつつみなく
幸くいまさば
荒磯波ありても見むと
百重波千重波しき言挙す我は
(柿本人麻呂)
葦原の瑞穂の国
この国では、言霊を使っていいのは神のみの意志であり、
神以外のものが、言葉を操り、確定していない未来について希望を語ったり、相手の上げ足をとるように論理で言い負かせたりすることはしてはいけない。
つまりは、言挙げなどしない国が日本なのだ。
(そういえば、子どもの頃、本当に実現したいことがあるときは、言挙げしないことようにしていた。言葉にしてしまうと、実現しなくなる感覚があった。不思議と、自然に言挙げしない国という呪術的な感覚をみんなもっていたのではないか。また、不吉な恐ろしい言葉を言挙げしたときなど、実際には何も起きてはいないが、大きな罪の意識を感じることもあった。)
しかし、しかし、私はあえて言挙げをする。
「言葉が祝福をもたらし、旅立った恋人がご無事であるようにと」
これは神の意志に背くことだと知りながらも、この気持ちを抑えることはできない。
言葉にしたいのだ!
そして、本当に恋人がご無事なんであれば、
荒磯に寄せ続ける波ではないけれど
「変わらぬ元気な姿で、またお会いしたいのです」
と、百重波、千重波と、波のように繰り返し繰り返し言挙げをいたします、私は。
ふと、頭にブルーハーツの「君のため」の歌詞を思い出した。
ぼくの大好きな歌だ。
好きです 誰よりも何よりも 大好きです
ごめんなさい 神様よりも好きです
もし、聞いたことがないのであれば、ぜひとも聞いてほしい。
史上最高のラブソングなんじゃないかと思っている。
最強の言挙げの歌だ。
言霊の力を信じるが故に、むやみに言挙げをしてはならないという精神文化。
言霊は、事を成す力が宿っている、いいことも、悪いことも。
それをコントロールできるのは、神の意志のみだ。
言霊の力を理解した上で、言挙げせぬ国としての禁を破ってでもいいたい想い、届けたい想いがある。
その情熱が伝わる歌だ。
ここに日本語の面白さがあるのだろう。
主語を不要とするコミュニケーション
言葉を空中に投げかけて、誰かがその破片を拾い、会話が成立する妙
言挙げをしない、見えない力への礼儀
現在でも深い部分では、「言挙げせぬ国」であるのは変化していないのにかかわらず、ビジネスや教育の世界では、言挙げ、ディスカッションを評価される国。
なんともいえないモヤモヤなダブルスタンダードな社会ともいえる。
実は、このダブルスタンダードな構造が、ひそかに子どもたちの心に影響を与えているのではないか。
そういった意見も聞いたことがある。
まさに長男や次女をみていて、それがすごく大きなストレスになった事実はある。
進路について、部活について、友達との関係について、言挙げを推奨する教育の環境。
それを平然と受け入れる子どもたちもいる反面、それが呪いのように自分を縛り付けてしまう子どももいるということ。
さて、問題は。
本業の印刷会社だ。
印刷会社の仕事、ど真ん中名刺をつくるというのは、想いの言語化であり、言挙げ推進事業なのだ。
だからこそ、丁寧に、本心を手繰ることが大事になってくるのだと思う。
言葉遊びをしてはならない。
どうしても言挙げしたい想いは何かを探る。
そして、それをカタチにしていく責務。
これは、本気で向き合わなければならない仕事なのだろう。
そんな話をしています。みたらしソース部の活動動画
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