第21講 故人に尽くす一つの途
故人のために尽くす途として、遺稿を印刷して残すことがよいというテーマだった。
これは、すごく大切な意味があることだろう。
ただ、それを実際やろうとすると、なかなか難しいなと感じる。
なぜ難しいと感じるのか…。
それを考えてみた。
遺稿を残すことをリアルでイメージしたときに、手間やコストといった事務的な問題がすべてクリアしたとしても、難しいなと感じたの。
それは理由が3つある。
1,師をもつ
師弟関係がある。師を尊敬し学ぶ。
そういった師弟関係を生きることがあるかどうか。
2,言行一致
故人の遺稿を残したいと思えるということは、故人の生き様が誠であったからではないか。
つまり、言葉と行動を一致させた生き方が、そこにあったのではないか。
そうでないと、遺稿と実際の行動が違うということになってしまう。
3,主語を「私」に
人から聞いた話ではなく、主語を「私」として語ることができていたか。
「私」としての実践の中で得た気づきの言葉だからこそ、残す価値があるはず。
そのためには自己との対話を深めなければならない。
故人もそして、遺稿を残そうと思う側も、この3つを意識した生き方をしているか。
実は、それが問われるのではないかと。
今日の午前中、獅子舞のポスターの打合せを行った。
そのときに、昭和37年の獅子舞の映像が残っているということで教えてもらった。
この映像は、後世のために必要だと思ったから撮影した動画ではないはずだ。
当時の子どもの親が、個人の思い出として撮影したものだろう。
しかし、それが60年の月日が経つことで、貴重な資料となり、いろんなことを考察でき学ぶことができる映像になっている。
故人の遺稿を残すということは、この映像と同様に、そのときは、そこまでする必要がないかもと思うかもしれないが、誰かが残さない限り、未来永劫、故人の言葉は消えてなくなってしまう。
消えてなくなったところで、特に大きな影響は社会にないのかもしれないが、残ることで、思ってもみない価値になる可能性もある。
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