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言葉を信じる

第8講 気品


すっかり忘れていたことを思い出した。

数年前、自らの志として「気品」をあげていた。


気品を子供たちにバトンを渡すことのできる生き様を目指す。


このマインドは、今も変わりはないのだが、内容が少し変化していっている。


なぜこの志になったのかといえば、大阪と富山という二拠点生活をしていく中、子どもたちと離れていることからこそ、自分の一つの覚悟として、

富山で働いている時は、いつ子供たちに今の姿を見られても、恥ずかしくなく、胸を張って生きているか。

そんな覚悟を抱いていた。

ぼくにとっての座右の問いにもなるだろう。


そして、離れて過ごすぼくが、子どもたちにできる唯一のプレゼントこそ、「気品」なのだろうと思っている。


気品とはどういった性質のものであるか。

それは、自分がどれほど気品を得ようと修養しても、なかなか難しいものであると。

なぜならば、一代で身につくようなものではないからだ。

気品は、何世代と受け渡されながら培われていくことなのだと。

 

この性質は、「自分だけ」のことからすると、半ば諦めるしかない代物のように感じるが、見方を変えれば、自分の修養が、自然と次世代の気品の礎になるということだ。

 

だからこそ、ぼくが残せるこどもたちへのプレゼントは、気品となり、外に溢れ出すような「何か」しかないと。

 

捨石。

そんな言葉も頭に浮かぶ。


この気持ちは今も変わらない。


今年は、ひょっとすると長男が富山に来て、一緒に働くことになる可能性がある。

もしそうなると、自分のこの覚悟と捨石としての態度が、少し息子に伝わったのかもしれない。

父の仕事を手伝ってみたいと思ってくれていること。

これは感謝でしかない。



子の言葉を信じきる大人になること。

そんな大人を増やしていきたい。

 

これが、今ぼくの志だ。


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