身体に残るもの
- yamashina shigeru
- 4月20日
- 読了時間: 4分
A NEW EARTH
二巡目 第19週 振り返り
思考より下、思考より上

ごはんができるまで、思考の下へ。
妻に撮られました。
今週の振り返りがなかなか言語化できません。
たしか、すごい大きな気づきがあって感動したことを覚えている。
その瞬間、すぐに書き留めようとおもっていたのだけど、いつもの1週間の振り返りのときに書こうと先延ばしした。
ということは覚えている。
なのに、肝心の内容をさっぱり思い出せない。
ぼくは一体何に感動したんだろうか。
それを考えていて、「思考の下(どっと疲れて眠りに入る)」へ潜ってしまった。
横にいた長女から
「大きな感動であればあるほど、すぐに忘れるものだ」
と明言をいただきました。
長女はよくライブにいくのだけど、その実体験からの言葉なのだろう。
思考の下で見た夢も、目が覚めて数秒後には忘れていた。
感動を忘れ、苦痛を忘れ、夢を忘れ、最後に身体に残るものはなんだろうか。
今朝、息子と少しだけ会話を交わした。
息子は中学まで剣道をしており、2段をもっている。
小学校のころ、剣道の先生から、何度も何度も、足のひきつけができていないと指導されていた。
よく息子と一緒に朝練をしたことを思い出す。
ただ、見ているだけの親の立場からすると、単に足を引き付けるだけのことがなぜできないのだろうかと思っていた。
ぼくは、5月の頭に弓道の2段を受ける。
よく注意されるのは矢を放った後の右手の動きだ。
首を左に90度向けて目線は的を見据える。
左手は弓をもち、まっすぐ的に向かって伸ばしている。
左手の親指をぐっと的に向け狙いを定める。
矢を離すまで、一切右手は視界に入っていない。
「きっとこうなっているだろう」と予測するしかないし、イメージ通りの動きをしているかどうかも自分ではわからない。
その右手の動きを注意されるのだ。
注意されていることは理解できている。
しかし、それを実践し、かつ、矢を放つ瞬間の無心の状態で、見えていない右手をコントロールできるかどうか。
これは、身体に残っている何か…、記憶なのか、習慣なのか、に頼るしかない。
つまり、注意されたから直るようなものではない、時が必要になる。
2週間に1回のペースで「大学」の素読を行っている。
論語にも大学にも「徳」という言葉がよくつかわれる。
徳とは何か。
解説にはこんなふうに書かれてある。
道を志し、実践していく。
その中で身体に残ったものが「徳」である。
だから、「徳」は知識だけでは身につかない。
実践していくしか「徳」は生まれない。
徳を積むとは、日々の実践になる。
モノの意識と空間の意識
いま絶賛昇段審査に向けて意識しているので、ついつい弓道の話になるのだが。
審査では、的を射ることもそうだが、それ以前の体配を見られる。
正しい順序で動作できているかどうか。
弓に矢を番え、目線を矢の右端から左端へゆっくりと動かし、その延長線上にある的を見て、もう一度目線を逆順に戻す。
この行為!
目から20cmぐらいしか離れていない矢を右から左、左から右に見る、というだけの行為なんだけど、実は2年間弓道をやってきて、全然できなかったのだ。
出来ないというのは、もちろん目は動かしている。
動かしているのに、ちゃんと矢を見ていないのだ。
これも不思議なもんで、見ないといけないなとおもっているのに、見れないのだ。
ぼーっと視界には矢は映っているのだけど、ちゃんと矢に焦点を当ててみていない。
緊張
焦り
目標
執着
いっぱい理由はあるように思う。
それが最近ようやく矢を見ることができるようになった。
空間の意識とは、モノの意識(要するに知覚、思考、感情)をもつと同時に、その底流に目覚めてるいるということだ。
何かの出来事や人や状況に動転するとき、ほんとうの原因はその出来事や人や状況そのものではなく、空間(スペース)だけが可能にする真の視点が失われることだ。そのとき、あなたはモノの意識に囚われて、時を超越した意識そのものである内なる空間を見失う。
Comments