top of page

金閣寺のアク

血・育ち・教え


ree

修身を学ぶ会富山

いままで、「血・育ち・教え」の講を読んだときに印象に残っていたのは、人間というのは、血と育ちと教えの3つから出来上がっているのだという大きな枠のところだった。

 

しかし、今回は全く違う視点からの気づきがあった。


血と育ちからくる「アク」に気づく、見えるのは、いつか。

振り返ると、ぼくにとって、妻と子どもたちからだということに気づかされた。

このことに気づいたことに驚きを隠せない。


自分を理解するには、相手がいて初めて理解できる。

常に相対的なものだ。


その最も自分を理解するための存在が、妻からの言葉であり、子どもたちからの声だ。


その声をどう受け止めるるか。

頭では受け止めているつもりでも、感情では素直に受け止めていない。

まだまだできていない。

いつの間にか、心の中、内なる声として、相手の言葉に対して反論しようとする言葉が生まれ始める。


この、放っておくて出てくる言葉なのか感情と、自分の血と育ちは、どんなふうに繋がっているのだろうか。

繋がっていることは確かだ。


内なる声としての反論の裏側にある景色は、子どものころの両親の生きる後ろ姿が見えてくる。

それは決して悪いイメージではない。

それが不思議なのだ。


「アク」とは、決してマイナスの出来事や感情だけを指すのではないということに思い至った。

 

常に相対的であること。

金閣寺があまりにも偉大で美しいからこそ、燃やしたくなる感情。

これは金閣寺にも「アク」があるということになるのかもしれない。

最新記事

すべて表示
希望の種を拾う

修身を学ぶ会富山 第7講 身代わり 小学校の低学年だったころ、同級生が雪の事故で亡くなるという出来事が起きた。 当時担任だった、いつもやさしい女性の先生は、事故後、まるで別人のように表情が硬くなり、少し冷たい空気を常にまとっているようになった。 その変貌ぶりがあまりにも印象的で強く記憶に残っている。 きっと、その時の担任の先生は、感じるの必要のない「責任」と、死を覚悟したのかもしれない。 数か月間

 
 
 
自分の平生使い慣れた一を改める

修身を学ぶ会富山 第5講 学問の本義 弓道をはじめて、ようやく3年になる。 少しずつ、道の深遠を知ることができるようになってきた。 自分の平生使い慣れた一を改める 人生50年生きてきて、無自覚に身に着けた「一」をどう直していくか。 妻にこれまで何度も注意されいてる身体的癖がある。 少しあごを上げた状態で歩く姿勢だ。 相手にあまりいい印象を与えないと、よく注意を受ける。 注意されるたび、そうだなと思

 
 
 

コメント


bottom of page